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ガメラ 大怪獣空中決戦

ガメラ 大怪獣空中決戦

 不思議な方法で映画をみました。
 見た映画は「ガメラ 大怪獣空中決戦」

【ストーリー】
プルトニウム輸送船「海竜丸」の警護にあたっていた海上保安庁の巡視船に、「海竜丸」が座礁したとの連絡が入った。その環礁はまもなくまるで生き物のように「海竜丸」から離れていった。その頃、福岡市の動物園に勤める鳥類学者・真弓(中山忍)は、五島列島の姫神島で消息を絶った恩師・平田を心配して県警の大迫とともに島に飛んでいた。彼女がそこで見たものは、巨大な鳥によって破壊しつくされた島の変わり果てた姿だった。一方、「海竜丸」の座礁事件の謎を追う保安庁の米森(伊原剛志)は、海上保険会社の草薙を頼って調査船に乗り込む。太平洋上で環礁を発見し上陸した米森たちは、そこで不思議な金属片と、碑文の書かれた大きな石碑を見つける。ところがその瞬間、環礁は再び生き物のように動き出した…。


みんしーやん的評価:
A

 何故今このタイミングでガメラなのか、というと、「シン・ゴジラ」が流行っているからです。
 いや、この表現は正しくないですね。
 「シン・ゴジラ」を「高く評価する人」が「いる」からです。
 ここでは、改めて平成ガメラの第一作目であるこの作品を取り上げることで、「シン・ゴジラ」が果たして映画として、特に「怪獣映画」として、高評価する人たちが感じるものほどの面白みがあるのか、つまり、シン・ゴジラへの評価が、単なる歪んだナショナリズムが充足された快楽から来ているものなのではないかと、改めて検証したいと思います。
 わかりやすく言うと「今セックスしてる真っ最中だから可愛いって思ってるんだろうけど、本当にその子可愛い? 君の好みなの?」ってことですよね。

 とりあえず、この「ガメラ 大怪獣空中決戦」について、「怪獣映画」という観点から評価していきたいと思います。
 怪獣映画という点以外にも、例えば藤谷文子が出てきた時に「あなたのお父さんならギャオスも一撃じゃないですかね?」と思ったりとか、あとはギャオスが逃げる時のBGMが流れると、否応なく四国かどこかに連れて行かれるんじゃないかと思うとか、ということも語りたいわけですが、とりあえずセガールどうでしょうの話はおいておきます。


 「シン・ゴジラ」の方のネタバレに関わりそうなのでちょっと分けます。





 本作の怪獣映画としての評価ですが、100点に近いものだと思いますよ。
 何が評価できるかというと、まず「敵」「味方」が明確に分かれていること。
 本作で言えば「敵」はギャオスであり、「味方」はガメラであります。この役割をこの作品ではきっちりと線引をしている。
 ギャオスは徹底的に悪であり、ギャオスに対する一切の同情を抱かせる余地はない。ギャオスも悲劇の生物だ、などという思いは微塵も抱かせない。何故ならば、ギャオスは人を食い、そして共食いまでする。人を喰うだけならそういう生命体ということで納得はできても、共食いまで行くとそれは話が変わってくる。単なる凶悪で排除すべき生き物でしかない。しかもギャオスが人間を「食った」場面は明確に描かれている。ペリットから出てくる恩師のボールペン。電車の中の人をむしゃむしゃ平らげたあとは、緑色の服(時代を反映して読売ヴェルディのユニホーム……)が口の中にいっぱい。そうでありながら、ただただヘイトを稼ぐだけの生き物ではなく、東京タワーを巣にして夕日をバックに佇むところなど、画としては非常に美しく、同時に禍々しくもある、非常な名シーンだと思います。
 対するガメラも、明瞭なヒールに対するベビーフェースとしてしっかりと存在感をアピールしている。ギャオスと対峙し、人間をかなり直接的な方法で守っているにもかかわらず、その人間からは疎まれ、攻撃されてしまう。それに耐えつつ、決して人類には手を挙げず、ギャオスを倒すために戦う。非常に涙ぐましいベビーフェースじゃないですか。
 勿論、最後はヒールを倒し、ベビーフェースが勝利を収めるわけです。
 そう、この映画では、「ヒール」「ベビーフェース」が明瞭で、且つ、双方の怪獣がそれをしっかりと演じている
 勿論ガメラは着包みだし、ギャオスも操演だったりする。表情はCGに比べて乏しいはず。それでも、しっかりと演技をしている。ギャオスはふてぶてしく見えるし、ガメラは勇壮に見える。
 だからこそ、ギャオスとガメラが戦えば、自然とガメラを応援してしまう。ギャオスはギャオスとして思い入れは抱きながらも、ギャオスが勝手迎える大団円には満足する。
 これって、非常にプロレス的なメソッドだと思うのですよね。分かりやすい勧善懲悪のストーリーに加えて、ヒールにも怒りを買う理由と、それを超えた魅力がある。

 そして、ここで「シン・ゴジラ」の話になるわけです。
 「シン・ゴジラ」におけるヒールは、言うまでもなくゴジラ。同時に、魅力のあるヒールであることを義務付けられている。それに値する役割をはたしていたか。
 以前の「シン・ゴジラ」評でも言いましたが、ゴジラは何もしてないのです。ただ歩いていただけなのです。ギャオスのように、人類に対して凶悪な性質を見せたりもしないのです。これはつまり、ゴジラがヒールという役割を演じていないのです。
 例えるならば、新日本プロレスに来た時のブロック・レスナーみたいなものでしょうか。
 確かにレスナーにはWWEというバックボーンがありました。それが強さの理由と説明されました。それはいいです、確かに強いんでしょう。その強さもアピールしました。打たれ強くもあり、そしてF5という必殺技もありました。
 では、じゃあレスナーが「ヒールとして」何かしましたでしょうか? ヒールとして盛り立てられ、倒すべき敵と位置づけられたにもかかわらず、それを煽るようなアクションをレスナーはしてこなかった。だからこそストーリーは盛り上がらなかった。新日本の選手が危機感だなんだのと言いながら手を挙げたとしても、観客は特にレスナーを「倒すべきヒール」として見てないから、非常にそのストーリーが滑稽でした。そして結果として、特に何も残すことなく、レスナーは日本を去りました。
 確かに「シン・ゴジラ」にも、ゴジラという強さのバックボーンがあり、その強さもアピールしました。自衛隊の全力攻撃を物ともせず、F5級のレーザー乱射も見せました。でもゴジラは、ヒールを演じませんでした。ただ強さを見せ、技を繰り出しただけでした。
 だから、見てる人は白けるのです。あれほどWWEでは魅力的だったブロック・レスナーに冷ややかだったのと同じように、ゴジラに対しても冷ややかにしか見れないのです。そして、そのゴジラを「危機」と位置づける日本政府の皆さんが、レスナーに挑戦を挑んだ新日選手と同じように白けるのです。

 「シン・ゴジラ」は、ヒールを演じなかった。ただの存在としてしかそこになかった。
 それを「超常的な存在」として位置づけるのなら、それもありでしょう。ただそれは怪獣ではなく災害であり、「怪獣映画」ではなく「災害映画」になるというのは、前も話したとおりです。
「別に災害映画でもいい、俺はこの映画が好きなんだ」というのであれば、それはそれで構いませんよ。それを面白さの根拠としているならね。
 ただそう言った、冷静な評価を挟む余地を与えない大きなノイズ=日本へのナショナリズムの代替的な充足があるが故に、正しく評価されてないのは、恐らくですけど、圧倒的な事実だと思うのですよ。
 決して「シン・ゴジラ」は悪い作品だとは思いませんが、その悪くなさが語られることなく、快楽に支配されて盲目的に「いい、最高」とだけ言い続けるのは、映画の本来の楽しみ方ではないし、それが蔓延するようなら面白い映画が作られる余地すらも狭めるのではないでしょうか。

 と考えた時、ギャオスとガメラの、操演や着包みでありながら活き活きとした「演技」こそ、「シン・ゴジラ」に決定的に不足しており、そして、「シン・ゴジラ」が持たなければならない要素だと思うのです。
 「シン・ゴジラ」の次回作があるのならば、ここはしっかりと組み込まれなければならないものであり、そこれを無視した上で、また今回と同じように日本人がマスターベーションにふけるようなら、いくら「シン・ゴジラ」の興収が上がったとしても、邦画は本当にダメになっていくのだと思いますよ

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