マギー

マギー

 DVDを見て参りました。
 見た映画は「マギー」

【ストーリー】
未知のウイルスが世界中にまん延し、人々が次々とゾンビ化していく中、アメリカの田舎町で暮らす16歳のマギー(アビゲイル・ブレスリン)も感染してしまう。彼女の父ウェイド(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、隔離病棟に入っていた娘を捜し出して連れ戻す。家には、マギーにとっては義理の母にあたるキャロライン(ジョエリー・リチャードソン)と、彼女とウェイドの間に生まれた2人の子供がいたが……。


評価:
C+

 アーノルド・シュワルツネッガー主演のゾンビ映画でございます。
 ……と聞くと、そらもうシュワルツネッガーが、ゾンビをちぎっては投げちぎっては投げ、八面六臂の大活躍をすると思うじゃないですか。思うじゃないですか。そんなことはまったくないのですよね!
 まあ、それはいいんですよ。シュワルツネッガーもアクション一辺倒の役者ではなく、色んな演技ができる役者さんですから、こういう静かな映画もありだと思いますよ。実際、苦悩する父親像をしっかりと演じていらっしゃいました。
 ただまあ、この静かなゾンビ映画が、どの程度ニーズを拾えているのかな、と。

 これは私だけかも知れないし、まあ多分そうじゃないとは思うんですけど、ゾンビ映画を見る人って「ゾンビと逃げたり戦ったりするところを見たい」っていうのが基本線だと思うのですよ。言ってもゾンビってホラー映画のクリーチャーであり、打倒するべきモンスターじゃないですか。当然、ゾンビ映画っていうジャンルが定着するに連れて、王道に対して絡め手っていうものが出てきても悪くはないと思うのですが、やっぱり基本線は「ゾンビ⇒倒す⇒完!」ってところだと思うのですよね。
 だから、「娘がゾンビになる、かも」っていう悲劇を描くにしても、「ゾンビとの戦い」はしっかりと描くべきだと思うのですよね。
 今回の映画にはそれがなくて、単に「娘がゾンビ化する苦悩に苛まされる父親」しか描かれなかったので、「ゾンビ」である意味がないかなーと。もう少し、人を襲う存在にならざるを得ない=ゾンビらしい描写をしっかり書いていただければ、苦悩もしっかり伝えられたのではないかなと思うのですよね。
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ゼロの未来

ゼロの未来

 DVDを見て参りました。
 見た映画は「ゼロの未来」

【ストーリー】
近未来の管理社会、孤独な天才コンピューター技師のコーへン(クリストフ・ヴァルツ)は解明されていない数式「ゼロの定理」に挑み、人生の目的とは何かを知るため、ある人物から電話がかかってくるのを待っていた。ある日、パーティーで出会った魅力的な女性ベインスリー(メラニー・ティエリー)との恋、そして会社の社長の息子で自分と同じく天才的なコンピューターの使い手であるボブ(ルーカス・ヘッジズ)との交流を通じて、コーヘンは生きる意味について知っていく。


みんしーやん的評価:
C

 特に日本人なんかはそうですが、映画を選択する上で何を基準にするかというと、それは往々にして映画の本質を示すものにはならないわけですよ。
 具体的には、それは「俳優」「監督」
 映画と言うのは、当たり前ですが一人で作っているものではなく、ましてや興行ベースに乗せようとするならより多くの人間の意見が反映されるはずです。監督が実際現場に立って絵作りをすることに間違いはないと思いますが、そこには脚本家やプロデューサー、製作人やエディター、さらにはスポンサーの意志も絡まってくるわけです。
 それでいいと思います。完成したものがどのような作品であるかが大事なのであって、誰が作ったっていうのはそこまで大事ではないのではないかと思います。一人で作った映画が素晴らしいなら、キャシャーンは素晴らしいということになりますからね!
 まあ、なので監督が誰であるかは作品の絶対的な選択基準にはならない。名作を撮った監督が次に駄作を撮ることだって、その逆だってあるわけです。
 ましてや、俳優は映画の主要な要素ではない。もちろん、演技力や演技プランによって作品の良し悪しに差が出るのは事実ですが、よい俳優が出ていれば面白い映画になるはずもありません。名優が名演技をしていたって、駄作になる映画はたくさんあります。
 まあ、そんな形で、映画を見る上で俳優と監督を基準にするのはよくないかな、と。それが私の映画を選択する基準ですかね。

 でまあ、この映画ですよ。
 監督:テリー・ギリアム
 主演:クリストフ・ヴァルツ

 こりゃあぜってぇ面白いって!
 だって監督がテリー・ギリアムで、主演がクリストフ・ヴァルツだぜ! 面白いに決まってるよ!


 まあ、全力でブーメランが返ってきてますよね!(長い前振り)
 しかもある程度取り損ねてるっていうのがあります!

 とりあえず、ふたを開けてみればいつものテリー・ギリアムでした。
 監督で選ぶのがどうの、って話をしましたが、よくよく考えたらこの人いつもこんな感じですよね!
 今回もいつものテリー・ギリアム全開で、不可思議な世界観が、果たして何かを暗喩しているのか、していないのか、そのあたりを追いかけながら話を見てみれば、結果特にそんなものはなかったのかな。という、アーティスティックな体裁と雰囲気に浸ることができれば、それなりには楽しめるのではないかと思います。
 なのでその覚悟がなぜかなかった今回のわたくしは、ちょっと首をひねりながら見ていた感じでした。

 まあ、その暗喩部分は、全部ではないけれども分かったのですよ。
 例えば、コーエンが現代人=民主主義における主権者であるところの「一般民衆」「善良なる市民」の暗喩であるということ。
 彼が自分を「我々」と複数形で呼ぶのは、「自分」という個を主張することによって社会の中で「個人」が不利益を得ることがないように、自分を一つの存在として主張することなく、しかし集団という隠れ蓑を使って自己の「わがまま」を、「集団の意見」という名目で社会に押し通そうとする、その思想が故だと解釈できます。
 ベインズリーとの顛末についても、「善良なり市民」が持つ上っ面の潔癖性と、その現実を理解しながらも、明示されないという理由で「知らされなかった」という「正義」を振りかざして、事故の「正しさ」を守る行為の、その結果。

 まあ、いくつか監督がインタビューで答えていたこともあるので、ある程度的外れなこともあるかもしれませんが、まあ、自分はそう感じたということで。
 問題なのは、全体的にまとまりがなかったことですかね!
 そういう暗喩なんかを追いかけようとするのは本当は楽しいのだろうけれども、この時はあんまりそこまで頑張るモチベーションが保てなかったかな。当然自分のコンディションもあるのですが、それ以外に全体的にひきつけるものが少なかったような気がします。当然、俳優の演技は満点だし、監督も嫌いじゃない、好きなものもありますけれども。
 まあ、やっぱりこういうのは普遍的なものではなく、色んな理由によって映画の面白さって変わるのですね。

 教訓:せめてブーメランはちゃんと受け取りましょう。

ヘイトフル・エイト

ヘイトフル・エイト

 映画を見て参りました。
 見た映画は「ヘイトフル・エイト」



【ストーリー】
雪が降りしきる中で馬を失った賞金稼ぎマーキス(サミュエル・L・ジャクソン)は、同じ稼業であるジョン(カート・ラッセル)と彼が捕らえたデイジー(ジェニファー・ジェイソン・リー)を乗せた駅馬車に同乗する。途中で保安官を名乗るクリス(ウォルトン・ゴギンズ)を拾った馬車は、猛吹雪から避難するためにミニーの紳士洋品店へ。メキシコ人の店番ボブ(デミアン・ビチル)や怪しげな絞首刑執行人オズワルド(ティム・ロス)などの存在にジョンが強い警戒心を抱く中で、事件が起こる。


みんしーやん的評価:
A

 いやまあ、映画としては面白いと思うのですけどね。
 その周囲のあれやこれやを含めたら、非常によろしくない映画体験が満載だったので、あまり気持ちがよいという感じがしなかったのです。
 なので、今回は映画の評価とは別に、個人の愚痴のようなものが多分に含まれますので、そういったところも「わかるわかるー」と共有しながら見ていただければいいかなと。
 単純に映画の評価から言えば、昔のタランティーノ作品みたいで楽しかったです。それこそ、「レザボア・ドッグス」とか「デス・プルーフ」みたいに、大掛かりなどんでん返しで物語的なカタルシスを覚えるよりかは、主に繰り広げられる会話の悪辣さやセンスの良さに入り浸るような、そういう楽しみ方がよいと思います。
 そう言う意味では、明確な「目的」のない映画なので、人は選ぶのではないかと思います。

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メランコリア

メランコリア

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 見た映画は「メランコリア」

【ストーリー】
巨大惑星メランコリアが地球に接近する中、ジャスティン(キルステン・ダンスト)は盛大な披露宴を催す。姉クレア(シャルロット・ゲンズブール)の夫(キーファー・サザーランド)が所有する豪勢な屋敷での宴は盛況だったが、花嫁のジャスティンはどこか空虚な表情だった。披露宴を取り仕切った姉夫婦はそんな妹を気遣うが……。




みんしーやん的評価:
A++

 何年か前に友人の結婚式がありまして、その二次会で主賓に2時間ほど待たされるという事件がありまして。そのとき周囲の人間に酔っぱらったみんさんがしつこいくらい「披露宴で二時間待たされる映画があるんだ」と言い続けて顰蹙を買ったことで有名な映画が、こちらでございます。

 オールタイムベストの一本でございますよ
 もちろん、万民が観て幸せになれる映画ではないけれども、少なくとも私はこれを見て、「幸せ」ではないかもしれないけど、満たされた気分にはなります。つらい時、苦しい時、そして、「今気持ちがプラスに傾いて、それを受け入れているな」と思ったときに、意識して観るようにしています。そして心を落ち着かせたり、浮ついた心を引き締めたりしているわけです。
 これはネガティブな人間が満たされる、ネガティブクスプロイテーション映画と言ってもいいでしょう(もちろん監督にそんなつもりはないでしょうけど)

 しかしながら、前半部は大変厳しいです
 「ジャスティン」の名を冠した第一部。おそらく、普通の人であれば幸せの象徴であるかのような、ジャスティンの結婚披露宴が舞台。結婚式というシチュエーション自体が、多分多くの人には喜ばしいことなんでしょうけれども、ジャスティンにとってはそうではない。どんなに繕って幸せそうにしてても、心の憶測にある虚無感には抗えず、感情を抑制できずに暴走してしまう。
 そして多分、基本ネガティブであり、ジャスティンに感情移入しまくってる私も、そのシチュエーションと、それをつらいと思っているジャスティンに理解を示さない周囲の人間が憎くてしょうがない。
 大好きな映画だけど、この前半部はできれば見たくないのです
 披露宴という、世の中では「プラス」と解釈されていることを、特に何の呵責もなく無条件に信じ切って、それが正しいのどうかも考えることなく、正しいかどうかを考える人間を、ただただ自分一人の思い込みを押し付けて否定する。
 その奥底にあるのが「幸せ」であること、もっと言えば「前向き」「ポジティブ」であることを肯定的にとらえ、それを否定することすら許さず、絶対的な善として扱われる。
 でも、本当に「幸せ」であること「前向き」「ポジティブ」であることって、いいことなんですかね?
 ネガティブであることだってそんなに悪くはないはずですよ。人類が生まれてから何年経ち、あと何年生きるとしたって、それは壮大な宇宙の歴史から見れば一過性なものでしかないわけで、その中の一人の寿命や、その人が子孫に受け継げるものなんて本当に誤差の範囲ですらないわけですよ。そんなものを「よりよく」生きるため、小さな人生を必死になって生きるのって、非常にばかばかしいと思いませんかね? 「幸せ」なんて不確かなものに必死になることなく、思った感情を素直に受け入れるべきだと思うんですよね。もちろん、素直にやった結果が「幸せ」「前向き」「ポジティブ」への執着なのであれば、それはその人のことなので、私は生易しく見守るくらいしかできないわけですが。まあ「幸せ」「前向き」「ポジティブ」なんてものは絶対的なものではなく、もしそれを絶対というのであれば、私の価値観が「絶対」と主張することにだって理解を認めてほしいわけですよ。
 腹が立つのは、世で「色々な考え方を認めなきゃいけない」とか言ってる人ほど、上記の感情に支配されている気がするのですよ。
 この映画に関連することであれば、ラース・フォン・トリアー監督がした「ヒトラーに理解を示す」という発言に対し「思想の自由」を主張する方々が「好ましくない人間」として、人間性を否定することで抵抗した、というのが象徴的だと思うのですよ。
 自分(たち)の抱く価値観こそ絶対で否定することすら許されない善。それが「幸せ」「前向き」「ポジティブ」であると。
 非常にばかばかしいことだと思うんですよ。
 そんなものに固執して「前向きでいなければ」と神経をすり減らすか、すり減らしすぎて自由な感情を抱けないほど心が摩耗するくらいだったら、自分は「不幸」「後ろ向き」「ネガティブ」であることを積極的に受け入れたいとすら思うのです。
 閑話休題。
 というわけで、そんなネガティブ人間によってこの前半部は苦痛でしかないわけです。
 ただ、これはポジティブ人間にも好まれる展開ではないでしょう。彼らは彼らで、ジャスティンが目の前の幸せを「受け入れない」ことにいら立つでしょうから。
 誰にも好まれない、まさしく誰得。ただ、すごく大事なパートです。

 でそんな前半部も終わりを告げ、姉の「クレア」の名を冠する後半部に行くわけです。この後半部が夢のような展開になっております。
 後半部はどんなかといいますと、一転巨大惑星「メランコリア」が地球に近づき、衝突するかという、物静かなディザスタームービーに突入します。とはいえ、ディザスター感は皆無ですが。
 何が楽しいって、前半あれだけ「ポジティブ」側におり、ジャスティンに散々不愉快をため込んでいた人々が、世界の崩壊を前に右往左往しており、対照的にジャスティンとみんさんの「ネガティブ連合」は「本当にこんな邪悪な人間どもは滅べばいいのにな!」と思いながら生き生きし始める
 そしてついにメランコリアが衝突し、地球が崩壊するその瞬間「ポジティブ」代表クレアさんは、息子の手を放し自らの頭を抱え、「ネガティブ」代表ジャスティンさんは、甥っ子の手を握ったまま最期を迎える。そら見たことか、ポジティブな人間が何を言ったところで、世界が滅ぶ瞬間は自分だけなんだ、愛すべき子供のことすら手放し、そうして抱えた自分ですら守ることはできないんだ。
 この後半部で、「ポジティブ」側が持っていた欺瞞が浮き彫りにされ、そしてネガティブ側が穏やかにその瞬間を迎える。それで私は満たされるわけです。
 とはいえ「ネガティブ連合」だって何も世界の崩壊を望んでいるわけではないですよ。私だって死にたくないし、多分ジャスティンだって死にたくはない。それでも我々が満たされたのは、世界や人類が滅んでしまったことではなく、その滅びを受け入れることができたこと、その一点にあるのだと思うのです。

 まあ取り留めもないですが。
 基本気持ちがマイナスに向かっているみんさんは、マイナスに終局があるこの映画は、自分の向かいたいところに進んでいるので大変気持ちよいのです。逆に、プラスにしか意識が向かないポジティブさんは、マイナスに向かうこの映画は不愉快で仕方がないのでしょう。
 でも、であればこそ一度見てほしいという気持ちもあります。この映画を見て、ネガティブの「悪くなさ」を知ってくれたら、それは「悪くない」ことなんだと思います。
 人を選ぶ映画であることは間違いないと思いますが、それを差っ引いても、展開される絶望的な絵の美しさは一見の価値があります。そう、滅びは美しいのですよ。ポジティブである前半部にはなかった画ですけどね。
 お勧めですよ。



 ただ、すべての人間に勧められるわけではありません。
 例えば、とある実写版「進撃の巨人」の脚本を書いた人は、脚本がひどいと言っておりました。
 そりゃまあ、実写版「進撃の巨人」の脚本とは違いますからね。実写版「進撃の巨人」の脚本みたいに、明るく前向き作品ではないですから。でも実写版「進撃の巨人」の脚本とは違う良さがそこにもあるので、実写版「進撃の巨人」の脚本を書いた人は、実写版「進撃の巨人」の脚本とは違うことを理解して、実写版「進撃の巨人」の脚本ではないこの作品の脚本を評価しないと、実写版「進撃の巨人」の脚本以外の映画評の信憑性も失うことになると思うんですけどね。まあ、実写版「進撃の巨人」の脚本を書くような人なので、実写版「進撃の巨人」の脚本のような深淵で文化的なものじゃないと気に入らないんでしょうかね。何せ実写版「進撃の巨人」の脚本を書いてるくらいですし!
 ただ、実写版「進撃の巨人」の脚本を依頼されて、書いた結果実写版「進撃の巨人」の脚本が出来上がるような人に、脚本についてとやかく言われたくないなぁというのが偽らざる私の真実でしょう。だってあなた書いたの実写版「進撃の巨人」の脚本じゃない。

白鯨との闘い

白鯨との闘い

 映画を見て参りました。
 見た映画は「白鯨との闘い」



【ストーリー】
1819年、エセックス号のクルーたちは鯨油を入手するためにアメリカ・マサチューセッツ州のナンタケット島を出港する。一等航海士オーウェン・チェイス(クリス・ヘムズワース)をはじめとする乗員たちは、太平洋沖4,800キロメートルの海域で白い化け物のようなマッコウクジラと遭遇。彼らは強大な敵を相手に必死で抵抗するものの船を沈没させられ……。





みんしーやん的評価:
C

 そんなわけで終了間際に見てまいりました。
 主演はクリス・ヘムズワース。マニアックな極一部の方には、「マイティ・ソー」のソー役で名前が通っている俳優さんですが、世間一般では「キャビン」の「戦士」役の人で有名なのかなと思います。そんなゾンビ一家に翻弄される大学生のアメフト選手役一般に名前が通ったクリス・ヘムズワースですが、今回は捕鯨船の一等航海士役です。

 かの「白鯨」のもととなった実話、を元にした映画です。多少ややこしいですね。
 「白鯨」は読んだことはないですが、あらすじは知っています。

『白鯨』のあらすじ
 男塾名物大海島巡り、二島目は青鬼島。そこにいた三海魔王の一人キャプテン鱏破布(エイハブ)。彼は白鯨を倒すため、一号生にシャチで訓練させたり、メスの鯨の張りぼてをけしかけたりするが、悉く作戦は失敗する。やがて白鯨を銛を突き立てるがそれを避けなかった。子鯨を守っていたのだ。攻撃を止めた一号生は頼りにならないと、自ら銛を持って突撃するエイハブの船を桃が壊し、海に投げ出されたエイハブは白鯨に食われるのだった。


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