大怪獣東京に現る

大怪獣東京に現る

 不思議な方法で映画を見ました。
 見た映画は「大怪獣東京に現る」

【ストーリー】
のんびりしたある日、東京湾にトカゲ型怪獣が出現、自衛隊の奮戦も空しく東京は壊滅、怪獣は山梨県を通過する進路をとり、甲府市を蹂躙、更に西に向かった。そのとき関東地方に巨大地震が発生し、ついで福岡に飛行可能なカメ型怪獣が出現、トカゲ型怪獣を迎え撃つかのように北東に進路を取った。
怪獣の出現地点から遠く離れた福井県三国町の住民は、呑気に日常を過ごしていた。しかし、やがて住民達は怪獣らが福井県へと進路を取っていることに気づく。福井には自宅だけではない、原子力発電所もあるのだ。自衛隊はあてにならず、アメリカの大型空母は地震に伴う津波によって海の藻屑と消えた。誰が怪獣を攻撃する? いちばん安全な避難場所はどこだろうか?


みんしーやん的評価:
C

 怪獣続きで更に一本。

 怪獣映画、と銘打たれていますが、果たしてこれは怪獣映画なのか、否か。
 怪獣は全く出ません。1秒も映りません。劇中の人物も、怪獣は全てテレビの中だけに存在するものなので、現実感を持って接してはいない。所詮は遠い場所のこと、福井までは来ないでしょう、と。脳天気に構えていたものの、やがて怪獣は二匹に増え、怪獣はどんどん北側に……つまり自分たちのいる方に向かってくる。さあ大変、という話です。
 怪獣のでない怪獣映画、というのは面白いアイディアでしょう。アイディアでしょうが、正直それをやるには尺が長いかなと。

 恐らく、一発アイディアを思いついたのでそれで行こうと息巻いては見たものの、実際怪獣の出ない怪獣映画って、できることは少ない。コメディに舵を切った事自体は間違いではないんだろうけれども、登場人物が多く、その話が散漫なので、非常にまとまりのない話に見えちゃう。怪獣あんまり関係ないじゃん、って話の流れも見受けられる。
 「遠巻きに見てる分には他人事だけれども、いざ自分に被害が及ぶと慌てふためく人間の愚かさ」を表現するのであれば、これって桃井かおり周りの場面だけまとめていけばいいのですよね。むしろそこに話を集中させたほうが、コメディとしても締まるだろうし、シニカルで意地悪なテーマをしっかり表現することも出来たと思うのですよ。話がまとまらないことを恐れたのか、それともはじめから群像劇にすることを望んでいたのか、正直半数以上の登場人物が全く要らなかったと言わざるを得ません。

 そして、それよりももっと不満だったのが「怪獣の表現方法」
 勿論、1秒も怪獣は出ないのですが、怪獣を模した「矢印」は出てくるのですよ。
 でもこれって、「怪獣」を出してることになるじゃないですか。
 分かるかなぁ、目に見える、例えば恐竜や亀に似た巨大なでは勿論ないけれども、この矢印は確かに怪獣を表現しており、日本のどこにいるのか、どういう経緯で移動し、もう一匹の怪獣と戦闘していることが、明確に表現されているじゃないですか。形こそ恐竜や亀じゃないけど、それは確かに怪獣を表現している。
 「ニュースで出てくる映像」であればそれは問題ないのですよ。あくまでも、ニュースでわかり易い表現をした結果を、登場人物(と観客)が享受しているので。でもこれは違って、観客だけが理解できる映像なわけですよ。そこに「怪獣」を出したら、そもそもこの映画のコンセプトが瓦解するわけじゃないですか。
 結局「怪獣」を出さないんじゃなくて、「造形としての怪獣を出してない」だけなんだと。

 んまあ、確かに、どうでもいいといえばどうでもいいことかもしれません。正直なんで自分もこんなところにこだわっているのか分かりません
 ただ、なんとなくですが、こういうところも含めて、非常に典型的な「邦画」のように思われるのですよね。
 話は全体的にとっちらかってるのもあるし、「怪獣の出ない」というコンセプトはぬるっと崩壊している。でも多分、製作者はそれを良しとしている。コンセプトを明確に定め、そこに対して話を絞るということをしないで、ともかく四方八方に話を広げて伏線を複雑化することを「よいシナリオ」と位置づけているフシがあるのですよね。
 後は役者陣の演技テンションも、非常に「邦画的」静的な場面では感情が一切感じられないほど平坦で、動的な場面では非現実的なほどにオーバーアクション。現実にこんなことがあったら……というシミュレーションをさせる余地もなく、「これは映画なんですよ」と高らかに訴えるようなこの演技プランって、なんか昔から邦画にはあるような気がするのですが、なんなんでしょうかね。何もないシーンには感情を込めてはいけないっていう、暗黙のルールでもあるのでしょうか
 当たり前ですが、我々が平時日常会話している間も、感情って言葉にこもりますし、あんな早口で、投げやりな話し方はしませんからね。結局、動的な部分にのみ重きをおいて、それ以外には「不要な箇所」という認識しか持てないから、こうなっちゃうのでしょうかね。だからこそ、「不要な箇所」が続くことを良しとせず、不要でない場面を追加した結果、物語が群像劇化していくのではないかな。色々繋がった気がします。

 「怪獣の出ない怪獣映画」というコンセプトは、決して悪く無いと思います。マクガフィンとしての怪獣というのも非常に魅力的でしょう。ただ、それで描くべきところの視点がぶれてしまったことが残念だったかな。
 そして、それ以上に典型的な「邦画」の型にハマってしまっているのも、非常に残念でした。


 あと竹内力はよかったですが、この人結構こういうテンションの演技やるんだよね。
 あと大島優子は、まあうん。
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ゴースト・バスターズ

ゴースト・バスターズ

 映画を見て参りました。
 見た映画は「ゴースト・バスターズ」


オフィシャルではないけどね

【ストーリー】
コロンビア大学で教鞭をとっていた素粒子物理学博士のエリン・ギルバートは心霊現象を科学的に解明するための研究を行っていた。しかしある日、かつて自分が幽霊の実在を主張する本を書いていたことが明るみに出たせいで笑い者になってしまったばかりか、研究費を打ち切られてクビになってしまう。大学での居場所を失ったエリンは本の共同執筆者であるアビー・イェーツと再会し、自らの知識と技術力を生かすべくある計画を打ち立てる。それは、街を襲う幽霊を自分たちの手で退治するというものだった。エリンは原子力エンジニアのジリアン・ホルツマン、地下鉄職員のパティ・トーランを仲間に加え、専門会社「ゴーストバスターズ」を設立し、幽霊退治に乗り出す。


みんしーやん的評価:
B-






      りり






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スーパー!

スーパー!

 DVDを見て参りました。
 見た映画は「スーパー!」

【ストーリー】
さえない中年男フランク(レイン・ウィルソン)。彼の妻(リヴ・タイラー)がセクシーなドラッグディーラー(ケヴィン・ベーコン)の後を追って家を出てしまう。愛する妻を取り戻すため、彼はお手製のコスチュームに身を包みスーパーヒーロー“クリムゾンボルト(赤い稲妻)”に変身。イカれた女の子ボルティー(エレン・ペイジ)を相棒に、危険地帯の犯罪に立ち向かうフランクだったが……。


みんしーやん的評価:
A+

 非常に良い作品であります。
 意地の悪いブラックコメディと、そこを一歩裏に行った時に見える答えの出ないテーマと、それはそれとしてテンポが良くて楽しく、そしてラストでは理解のできない感情によって泣くと。

 映画の中で行われるクリムゾンボルトの行為は、果たして全なのか悪なのか
 動機は何よりも善だが、実際にやっている行為はひどく暴力的で、それを見ている人間は、おそらくおおよその人間は違和感というか、「よくないこと」という認識をするでしょう。なればこそ「ブラックコメディ」が成立するのですが、じゃあそれは本当に「よくないこと」なのか。
 例えば、割り込みに入る人がいて、その割り込み人をレンチで殴ることは、よいことなのか否か。我々は「よくないこと」と認識する。多分激怒する人もいる。では、激怒する人に聞くけれども「それはどうしてよくないの?」
 多分返ってくる返答は「だってよくないじゃん」。答えを持っているわけではない。
 だからこちらから考えると、多分その良くないことの原因って、「順番抜かしという罪に対する罰として重すぎる」ということだと思うんですね。
 でもそれって、根本的な善悪論ではなくって、単純に、法律で定められている量刑の概念を引きずっているだけだと思うのですよ。
 もちろん社会を円滑に回していくためには、それはとても大切なこと。順番抜かしをした人間にレンチで頭を割ることを認めては、そこら中が血だらけになっておちおち歩けもしないでしょうよ。
 でも、それは法律の問題。当たり前の話だけど、法律と倫理は、まったく、完全に、欠片ほども関係のない話です。
 法律に定められていれば倫理的に保証されているわけでは、もちろんない。そして、法律で禁止されていないことは、倫理的に認められているわけでもない。
 つまり、我々がいだき、その人達が激怒した感情は、正義感でも倫理観でもなんでもなく、ただ単に、法律と正義を混同してるだけの話なんです。
 じゃあ、法律を忘れて、単純に正義だけを考えたとき、クリムゾンボルトの行為は、前か悪か。
 思うのですよ。それは、純粋な正義だと
 きっかけは色々あっても、その行いは、ただの正義でしかない。
 じゃあ、彼はその正義の先に、何を手に入れたのか。
 それこそ、映画の中で語られた「完璧な瞬間」を数多く手に入れたこと、なのでしょう。
 でも、それって幸せなことなのか。
 もし幸せなのであれば、彼はなぜ最後、たった一匹のウサギを抱いて泣いていたのか
 満たされた涙なのか。
 もしそうであれば、なぜ私はその場面を見て、号泣しているのか。
 良かったね、と、純粋に思うことのできない、多分悲しみと呼んでもいい、でも、そう言い切るには少し不安のある感情が、どうしてもそのシーンを見て、思い出して、溢れ出してくるのです。

 まあそれを抜きにしたって、普通の作品として普通に面白いことは間違いありません。
 ボルティーのはっちゃけっぷりだったり、麻薬密売人たちが基本的には極悪人ではなかったり、コメディとして面白いところもいっぱいありました。
 また何度か気が付けばこの映画は見るだろうし、そしてそのたびに、自分でもよく分からない衝動で号泣するんだろうな。
 グロとかに多少耐性があれば、そして、この手の意地悪さに興味があるのであれば、ぜひとも観ていただきたいと思います。

 それにしても、ケヴィン・ベーコンは基本的に外さない俳優だな!
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